母なる地球の産道を風が吹き抜けてゆく
命は虚空の彼方から風に乗ってやって来る
命は虚空の彼方へ風に乗って去ってゆく
虚空、それは母なる地球の子宮
●地球交響曲第六番
~全ての存在は響き合っている~
最近のめざましい科学技術の進歩によって、この宇宙の全ての存在、すなわち銀河系、太陽系、地球、海、山、川、森、岩、動物、植物、バクテリアから原子のひとつひとつまでもが、それぞれに独自の“音楽”(vibration)を奏でていることが分かってきました。 「人間が音楽をつくる以前に、“音楽”がこの宇宙をつくり、生命を生み出し、人間をつくった」という宇宙物理学者もいます。
「ナーダブラフマー = 世界は音なり」という言葉があります。 数千年前から伝えられているインド、ヒンドゥー教の教えですが、これと同じ教えは、仏教をはじめ世界のあらゆる宗教や神話の中にもあります。 我々人類は、科学が進歩するはるか以前から、この真理を知っていたのです。 21世紀の科学は、宇宙物理学、電子工学、生物学、医学、遺伝子工学など、あらゆる分野で、この「ナーダブラフマー」という真理を再発見しつつあります。
我々が住むこの世界は、生々流転する全ての存在が、それぞれに独自の“音楽”を奏でながら、互いに響き合い、次々と新しいハーモニーを生み出しつつ、ライブ演奏されてゆく壮大なシンフォニーのようなものなのです。 ところが最近、この悠久のシンフォニーの中に、著しく調和を乱す“楽音”が聞こえるようになりました。我々人類が発する“楽音”です。甚だしい不協和音が発せられ続ければ、シンフォニーは当然調和を失い、カオス状態に陥り悲惨な結末を迎えることになります。
我々人類が不協和音を奏でるようになった理由ははっきりしています。 自分だけの利便や安楽を求め続けるあまり、自分以外の存在が奏でる“音楽”を聴く耳を閉じてしまったからです。共演者が奏でる“音楽”を聴かないで、美しい交響曲の創造に参加することなどできるはずがないのです。
今我々人類に早急に求められているのは、自分以外の存在が奏でる“音楽”を聴く耳をもう一度開くことです。そして、“耳を開く”ことはとても簡単で楽しいことです。 閉じているのは我欲に呪縛された“耳”だけです。私達のからだを構成する10の28乗個もある原子の一つ一つは、今この一瞬にも、外の世界に存在する全ての原子達と響き合いながら、美しいシンフォニーを奏でています。それが“生きている”ということです。 内なる音楽を聴くことは、外なる“音楽”を聴くことであり、外なる音楽を聴くことは、内なる“音楽”を聴くことです。
「音を観て、光を聴く」旅、それが「地球交響曲第六番」の旅です。
86年の噴火以来、今もあちこちから白い噴煙を吹き上げる噴火口。それは、46億年前から休みなく続けられる母なる地球の生命の営み。 草木ひとつ生えない漆黒の稜線を昇ってゆくひとりの男(ノブ)のシルエット。肩に奇妙な筒のようなものを担いでいる。 いづこからともなく聴こえてくる不思議な響き。噴火口の渕に腰を下ろし、ディジュリドゥを吹く男、ノブ。 母の産道にも似た太い筒の空洞を吹き抜けてくる生命の風が、噴火口の絶壁を吹き下って、白い噴煙を躍らせ、なだらかな稜線を滑り降りて、眼下の大海原へと拡がってゆく。 その響きは、母なる地球に呼びかける太古の人々の祈りの声か、はたまた、それに応える母なる地球の歌声か。 地の底から湧き上がり、大地を震わせ、風を起こし、天空の太陽と共振しながら、大海原に光の波を立てるその響きは、かつてこの地球に誕生し、死んでいった全ての生命が、宇宙の子宮の闇の中で聴いていた虚空の響き。 |
2006年3月27日午後、羽田発の飛行機で大島に着いた。
ホテルにチェックイン後、ロケハン(下見)に三原山火口に向かった。
何があるかわからないので、一応、何時でも演奏できる準備をしておいた。
撮影隊は龍村監督に助監督の谷さん。制作の西嶋さん。カメラマンの赤平さんにVEの千葉さん。AC吉田さん。録音の林さん。そして、現地大島から浅見さん、田村さんが案内で参加してくださった。
普段は車では入れない所を4WDで登っていく。険しい道ですぐ横は崖。ほんの数時間前とはまったく別の世界。車は品川ナンバーであらためて、ここは東京都なんだと不思議な気持ちになった。
そして火口に到着し、監督が、少し音を聴かせていただけますか?と言われた。三本持っていた中、イダキ(発祥の地北東アーネムランドのもの)と言われるものが二本。ディジュリドゥを一本。その中の、木肌が出ていてペイントの途中のイダキ(完成していないというのが、歩み続けるんだというメッセージに思える)ものを、御神火と言われる三原山の神にご挨拶をする意味で吹かせていただいた。しばらくすると、山の神が語るように、息吹くように白い噴煙が火口のあちこちから生まれはじめた。
景色ががらっと変わり、次元が変わっていくようだった。
KNOBさん、今すぐ吹けるか?監督が言われた。やってみます。
予期もしていない撮影が始まった。
撮影と言っても、メイクさんや衣装さんがいるわけではない。地球交響曲シリーズを支えてきた最小人数のチームの人がいるだけだ。
観光の方もまったくいない。あまりの噴煙で撮影隊もよくみえない。僕は火口に座り裸足になり三原山に断わり、足を体温を感じる三原山の地に埋めた。足の裏で、三原山のいのちを力強く感じる。心臓の鼓動がそれに反応するように激しくなってきた。
呼吸を整え瞑想をしていると、KNOBさんお願いしますと声が聴こえた。
僕はこの地で、初めて吹く真っ黒のイダキに祈りをこめた(これはアボリジニのイダキの神様と言われるジャルーが作られたもので御縁があり僕のところに来た)アボリジニの人々が永きに亘り大切にしてきた祈りの木笛の音霊に般若心経の言霊をと祈りを始めた、、、半眼の中見える世界。熱く焼けた火口はまるで隕石のような色、
渦巻くように真っ白な三原山の息が空洞の筒に入ってくる、、、気付くと、最後のマントラ、ギャーテーギャーテー、、、を奏でていた、、、
僕は空洞の木を置いた。顔は三原山の噴煙の蒸気でびっしょりだった。今のはなんだったんだろう?と思った、、、こういう感覚は初めてだった。どこかに行って帰ってきたような、、、演奏している途中の記憶がない。僕が吹いていたのか、三原山が吹いていたのか?体だけ、唇だけが勝手に動いていた。そんな不思議な感覚だった。
龍村監督がよく言われる体のからだと言う意味は〈からっぽ〉のからだ。本当に何かが僕のからだを通っていったような感覚だった、、、
撮影は終った。
今でも不思議な貴重な体験だった。あらためて、龍村監督から送られた撮影イメージをみると、噴火口の絶壁を吹き下って、白い噴煙を踊らせ、、、とある。今回の撮影日数は下見の日を合わせて三日間。最終日は午前中だけの予定だから撮影可能なのは二日間しかない。何カ月もかけ、撮りたい状況を待ち、その場が現れたら撮影するというものではない。天河で監督が話されていたけど、制限のある中で最大限のことをやらなければいけない。今までの地球交響曲には、人知を越えたようなシンクロニシティが起きている。
誰かがこんなことを六番の試写会の時に話されていた。~母なる地球はこの地球交響曲のことをよく知っていて、サポートしているんだと、もっと言えば地球(ガイア)の意識が龍村監督のからだを使って作らせているのかもしれない~と。大島初日は、生涯忘れることのできない一日となった。
噴火口での撮影の翌日は、三原山裏砂漠での撮影でした。 何箇所か車で移動しながら撮影をしていたのですが、ある場所に着いて休憩していた時に、僕の足元に一匹のてんとうむしがいるのに気がつきました。三原山一帯に着いてから、あまり生きたものを見掛けなかったので、監督にてんとうむしです!と伝え、めずらしいねぇと会話したことを憶えています。その場にてんとうむしは放して、また車で移動し、砂漠の山の斜面で撮影していた時、突然、監督が「何か、小さな生き物はいないかな?うーん、てんとうむしとか」 しばらく探していましたが、生命の気配もありませんでした。が、てんとうむしがいたのです。 さっきいた、てんとうむしと同じかはわかりませんが、みつかりました、、、 真っ黒のディジュリドゥの上に、てんとうむしをそっと置きました。僕が吹いていて振動する木から逃げることなく、僕の顔のほうにどんどん近付いてきました。そして、僕の指にそっと触れて、 てんとうむしは飛んでいったのです、、、 すべての撮影が終り、大島を離れる日の朝、監督から少しお話を聴かせてくださいと言われ、ホテルの監督の部屋でインタビューの音声だけを録音しました。その時には、僕がディジュリドゥに出会った時の話しや、一生をディジュリドゥと共に生きることを決定的にした夢の話しなどをしました。そして監督からこんな質問がでました。 「KN0Bさんはディジュリドゥを吹いている時、何かのためとか、そういうのはありますか?」 「もちろん、平和を願ったりそういうことはありますが、、、昨日、てんとうむしがいて、ディジュリドゥの上を、一生懸命歩くてんとうむしに、そのひとつのいのちのためだけに吹いた時間が、僕にはとっても印象的で、そういうことが、とても大切なことなんじゃないかなって思うんです」 こう答えました、、、 今でも、あの瞬間を憶えています。生命がないような、過酷にも思える環境の中、出会えたひとつのいのち。ディジュリドゥの木の響きを小さないのちと分かち合えた瞬間だった。僕はこれからも小さな出会い、その瞬間にしかない出会いを大切に感謝しながらあの木を吹かせていただきたいと思っています。 |
最終日に監督からのインタビューを受けたときに話した、僕がみた夢の話しです。 真っ暗闇の中に光が見えた。人が二人立っていて、そして、それが誰かはすぐにわかった。二人はアボリジニの人々だった。二人とも儀式の時のようにボディペインティングしていて、一人は黒と黄色のイダキ[ディジュリドゥ]を吹き一人はビルマを持って歌いながら僕の方へ向かってきた。 伝統的なアボリジニの方々の演奏[祈り]ではソングマンの歌とイダキの演奏がワンセットとなっている。その音色と歌声は本当に素晴らしかった。涙が流れてきて歓喜を感じていた。僕のすぐそばまで近付いてきた。イダキが僕の鼻先まで近付いた。ぶつかると思った瞬間、イダキは魔法のように僕の中に入っていった!そして 二人のアボリジニの人たちも僕の体に入ってしまったんだ!!!その瞬間から、僕の体の中に、全細胞に、魂に、何万年もの間、この地球の上で、先祖からずっと引き継がれてきた伝統的な‐音‐が響きわたった、、、自分の中から響いてくるんだけど、 まるで、全細胞がスピーカーとなったような、すさまじいバイブレーションだった、、、 どのくらいその音に包まれ抱かれていたんだろう?僕は幸せと愛と言葉にできないくらいの、沢山の感情に包まれた。そして僕の心の中から音がした。イダキの深い音だ。そうしたら僕の胸の辺りからイダキが生えてきた。僕は祈りをこめ深く深く吹いた。いろいろなものとの一体感を感じ、そして目が覚めた,,, とてもとてもスピリチュアルな夢だった。夢と現実が繋がった不思議な気分だった。 涙がこぼれた。 今、僕はアボリジニではない、どんなにアボリジニの文化、精神性にひかれて、一緒に暮らしてもアボリジニにはなれない、、、でも、、、僕の中にはアボリジニだった記憶があるんだ。伝統的なことは経験しているんだという確信のようなものがありました。 僕は今、日本人として生まれてしまった事実を受けとめ、日本人として、ディジュリドゥを吹くことが今生の役割なんだと深く感じました。 アボリジニに共通する日本の先人たちが大切にしていた精神を深く理解し、それを音にすることこそが、アボリジニの人々が太古から大切に大切にしてきたディジュリドゥに対する敬意だと思いました。そして、僕は一生をこの自然に空洞になった木の筒(ディジュリドゥ)と共に生きていくことを精進していくことを決意したのです。 これが、今でも鮮やかに憶えている、僕の夢の話し(ドリーミング)です。 |
地球交響曲第六番 2006 年 出 演
アヌーシュカ・シャンカール
ポール・ウィンター
声の出演
林 隆三(ラヴィ・シャンカール)
奥村 潮(ケリー・ヨスト)
山川 建夫(ロジャー・ペイン)
ナレーター
榎木孝明
森田真奈美
監督 龍村 仁
宇宙の声が聴こえますか
ー人類文明の新たなる進化に向けてー
太陽系第3惑星、地球に初めての生命が誕生して以来38億年、生命は何度も宇宙的規模の大災害に遭遇し、大絶滅の危機に瀕しながら、その都度奇跡のように甦り、 新たなる進化を遂げて、私達人類は今、ここにいます。
宇宙は、自らが生んだ生命を“可能な限り永く生かせ続けたい”、 という意志を持っている様にさえ思えます。この“宇宙の意志(Universal mind)”を地球上で体現しているのが樹です。
樹は何億年にも渡って地球の大気中の酸素濃度を21%という数値に保ち続け (ガイア理論)絶滅と進化を繰り返してきた多様な生命を生かし続けてくれたのです。世界中の全ての文化の中に、樹齢数百年の老大樹の中には、精霊が秘んでいるという言い伝えがあります。「樹の精霊」とは、「宇宙の意志」の顕われなのかも知れません。
私達日本人の身体(からだ)の中には遥か縄文の昔から1万年近くに渡って聴き続けて来た樹の精霊の歌声が、かすかな残響波となって今も響き続けています。世界の人々が称賛する日本の伝統文化の美は樹の精霊との出会いに依って育まれ、洗練されて来た、と言えるでしょう。
東日本大震災から3年、人智を遥かに越えた宇宙的な力に依ってもたらされた崩壊と苦難から立ち直り、真の復活を遂げる為に、私達日本人は今、なにに気付き、何をなさなければならないのか!
「樹の精霊の声、すなわち宇宙の声を聴く力を甦えらせなければならない」
と気付いた日本人達がいます。
地球交響曲「第八番」では、この人々の想いと活動を世界に向って発信します。地球の未来の全ての生命が健やかに、末永く生き続けることを願って
( 地球交響曲 Official Website 第八番コンセプトより )