雪堂美術館

 

2004年に開館した雪堂美術館は、

書家・小野田雪堂先生の美術館です。

雪堂先生がお好きだった山頭火や金子みすずの世界を書いた作品など、

墨の香を感じながら、ひとときほっと出来るような美術館です。

 

北鎌倉でお会いできることを楽しみにしています。

 

          KNOB

 

 

利用のご案内

開館時間

午前10時から午後4時まで

休館日

毎週木曜日・金曜日

入館料

500円 (コーヒーまたは抹茶つき)

 

 

交通のご案内

北鎌倉駅より

北鎌倉駅より徒歩4分ほどです。 

改札の目の前の鎌倉街道を、左手鎌倉駅方向に歩いてください。 

右手に東慶寺が見えましたら、まもなく雪堂門があります。 

建物はすこし奥まっていますので、お見過ごしないようにご注意ください。

東慶寺と浄智寺の間になります。

 

所在地

〒247-0062
鎌倉市山ノ内1391-1
Tel/Fax 0467(24)4563

 

 

大正14年

東京に生まれる。

昭和32年

日展初入選以後6回入選(昭和42年以降不出品)。

昭和44年

書藝新潮社設立。

昭和55年

東京都書道連盟設立。

平成8年

北山文庫設立。

平成13年

国際書画連盟設立。

平成17年

雪堂美術館設立。逝去。

 

個   展

 

昭和53・54年・55年

岩谷時子作詞小野田雪堂展

(帝国ホテル)

 

 

昭和60年

小野田雪堂展―山頭火の世界―

(銀座、ゆふきや画廊)

 

 

平成4年

小野田雪堂展―祈りの世界―

(銀座、松屋)

 

 

平成7年5月

於中国遼寧省博物館

王丹と二人展

 

 

平成7年11月

於三島市佐野美術館

王丹と日中水墨の出会い特別展―

 

 

平成13年

三島市佐野美術館(6月)

鶴岡市致道博物館(9月)

小野田雪堂の世界

金子みすゞ・山頭火の詩を描く―

 

 

平成15年4月

東京銀座鳩居堂

三遊展-詩書画篆刻の世界に遊ぶ-

(小野田雪堂・太田新之介・真鍋井蛙の三人展)

 

 

 

 

 

著   書

 

「小楷千字文」

「顔真卿三稿」

「三体千字集」

「真草千字文」

「臥牛庵雑録」

「真草唐詩選」

「一字値千金」

「鈍牛の足あと」

「一字千金」

 

 

平成17年逝去当時

 

書藝新潮社主幹

国際書画連盟理事長

湘南工科大学講師

日本書画振興協会参事

 

 

 

文人 小野田雪堂 

雪堂先生の座右の銘と言ってもいいくらい大切にされてこられた言葉が

~この今をありがとうございます~

でした。 

2005年10月15日という日は僕にとって~この今をありがとうございます~という明日でも明後日でも来年でもない、この今この一瞬こそがかけがえのない奇跡的な時間であるということを認識させられた忘れられない日となりました。

2005年10月15日、僕の生涯の恩師・小野田雪堂先生は30名近い長年の弟子たちとの熱海旅行の最中に突然、旅立たれました。お釈迦さまと同じ80歳でした。MOA美術館でたっぷりと有意義な時間を堪能し、宿へと戻りました。その日の天気予報は雨でしたが、空にはずっと太陽がありました。ところが雪堂先生が宿に戻るのを待っていたように雨が降ってきました。雪堂先生と兄弟弟子のみなさんとでゆっくり温泉に浸かり、先生の背中を洗わせていただいたり笑顔の絶えない時間でした。この時に夕食の後はカラオケ大会をしましょうとの提案に先生は、~僕は伴奏があると歌えないないんだよなぁ。僕は作った歌を歌うよ。いつもは二番までしか歌わないんだけど、今日は気分がいいから三番まで歌うよ~ととびっきりの笑顔で話されていました。そして、宴の席。お酒の飲めない雪堂先生も泡だけと、嬉しそうに口の周りを泡だらけにしたり、みんなが笑顔で本当に楽しい時間でした。そして、カラオケ大会も盛り上がってきたところで先生は、まだ誰も聴いたことのない自作の歌を三番まで歌われました。その三番の言葉はこうでした

~男なら、この世に生まれて、この世に生まれて悔いはなし、いけいけどんと命がけ、名はいらぬ~ 

力強く歌いきり、弟子たちの大喝采の拍手と声援の中、先生は静かに倒れられました。そして、そのまま天へと召されたのです、、、僕はその先生の歌をたまたま携帯電話で録音していました。力強い応援歌の命がけの歌声でした。歌う前に先生は僕は80歳になって勉強し、学ぶことが楽しくてなりません。みなさん、共に歩んでいきましょうと話されていました。先生は今ごろ亡くされた息子さんや戦友のみなさんと天で過ごされているのでしょうか。亡くなられた日のMOA美術館の能楽堂の前で僕は先生の隣にいました。~のぶ、いつかここで君の演奏会をやりたいね~そう言ってくださりました。先生は能楽堂に関する資料を持ち帰っておられたことを後日聞きました。

そして、雪堂先生が大好きで深く交流をされていた木の建築家・太田新之介さんが企画・演出をされた和の心にて候というコンサートで、僕はあの能楽堂に二度立たたせていただくことが出来ました。雪堂先生が天から導いてくださったのでしょうか。先生はその生涯を持って、生き方を通して~この今をありがとうございます~ということを伝えてくださりました。

雪堂先生、僕も先生が歌われたあの歌のように、歯をぐっと食いしばって書かれた書のように、この今にすべてを注ぎ込むように命をこめて、生きていき音を紡がせていただきたいと思います。 

雪堂先生。この今をありがとうございます。

~樹心如明鏡~   合掌。

                 KNOB

 

師、小野田雪堂

小野田雪堂先生と僕との関係について聞きたいという声がありましたので、少し書きたいと思います。僕が雪堂先生に出会ったのは、まだやんちゃな子供のころです。母親や叔母が先生の弟子で六本木の家に教室を開いていました。僕はその時には、叔母の一番弟子でした。年に一度の展覧会などで先生にお会いしました。やさしく笑うその笑顔が大好きでした。その当時、遊ぶことが第一で、仲のいい友達と遊ぶ合間にただ筆を持っていました。先生の息子さんのひとしさんは釣りが大好きだった僕のために、ルアーを造ってくれたり、兄が欲しかった僕は自分の兄のように思っていました。中学生になり、踊りに夢中になり、芸能界で活動するようになっても書の教室には たまに顔を出していました。だんだん仕事が忙しくなり、自分に余裕がなくなり、自信がなくなり悩んでいた時、いつものように元気な感じで小野田先生に書を見てもらいに行きました。字を見るなり先生は、のぶ なんかあったか?全然元気がないよ 大丈夫か?と僕におっしゃったんです。僕は、いえ ばりばり元気ですよと、言って失礼したんですが、今にも涙がこぼれそうでした。この 小野田雪堂という人間には嘘がつけない。小野田雪堂の書、雪堂という人間をもっともっと知りたい。その後 真剣に書に取り組むようになりました。考えてみれば、僕のそばにはいつも書があり、小野田先生の存在がありました。書がなければ、書を通じて教えられることがなければ、今吹いているディジュリドゥに取り組んでいなかったかもしれません。そして 2002年に師範となりました。そのときには、大好きだった兄だと思っていた ひとしさんは、いませんでした。小野田先生の息子さんであるひとしさんは、若いときに小野田先生に反発し、書の道から遠ざかりました。でもある時期から書を真剣にはじめ、誰より書家 小野田雪堂のことを考え 支えていました。35年前、小野田先生が作られた書藝新潮の中で、若い僕達のリーダーでした。しかし、志し半ばにして癌でこの世を去られました。僕は悲しくて悲しくて、身体中の水分が全部目からでてしまうんじゃないかというくらい涙がこぼれました。でもそれは、小野田先生御夫妻の深い深い悲しみに比べれば、、、

 雪堂先生は独学で書を学ばれました。戦後、物もお金もないときに、神田の古本屋さんに毎日毎日かよい、立ち読みで勉強していたそうです。そのあまりの真剣な姿に、本屋の御主人が本をプレゼントしてくださったそうです。そして、日展など書道会の真只中に身を置き、様々な方が、先生 先生とあがめる、持ち上げられた世界と、自分との中にギャップを感じ、雪堂先生が友人と始められたのが 書藝新潮社です。

 2004年4月18日に その書藝新潮社の35周年と、小野田雪堂書画集の出版記念パーティーが恵比寿のウェスティンホテルで行われました。このパーティーで 小野田先生にやっていただきたいなと思うことを相談しました。そのとき先生は、のぶ 僕は目立たなくていいんだよ。すみっこの方にいるだけでいいんだ。のぶ 森で老いた木は倒れるだろう、でもそこから若い芽若い木が育っていくんだ、、、僕よりも若い人たちが目立たなくちゃって、あの素敵な笑顔でおっしゃる小野田先生が、一瞬涙で見えなくなりました。世の中、自分が自分がという人は沢山いる。特に今回は完全に小野田雪堂が主役の舞台。そんな場で、いや僕ははしっこのほうがいいんだ、なんておっしゃる。今まで全力で、全身全霊で走って来て、自分自身と戦ってきた雪堂先生。深い悲しみや、本当の喜び、 幸せを感じることのできる人間だからこそ言える言葉。小野田雪堂という人間の深さと品格、愛を感じました。僕がみなさんに知ってもらいたいのは、同じ書道会の師匠だからじゃない。もし、書をやっていなくても、他の書の団体に入っていたとしても、僕は小野田雪堂という人間が大好きになっていたはずだ。

 そして周りにいる人たちも、本当に素敵な人たちばかりです。北鎌倉 雪堂美術館。観音開きの雪堂門 、アプローチそこに植えられている、奥様である芝雪先生の芝雪梅。そしてなくなられた御長男の木。僕らが兄のように思って慕っていた、ひとしさんの木、、、門をつくられたのは、お寺などの伽藍建築茶室を手掛ける、素晴らしい職人の棟梁、、、 

僕は小野田雪堂という人間を心底、尊敬しています。。雪堂先生の生き方そのものの書に出会える唯一の場所が北鎌倉雪堂美術館です。ひとりでも多くの方に、小野田雪堂に触れていただけたらと思います。ひとりの願いが 万人の願いにひとりの祈りが 万人の祈りに、、、


       

合掌      中村亘利   KNOB

開門式

2004年11月3日。雪堂美術館が開館しました。午前9時から 開門式が執り行なわれました。スーツ姿でばっちり決まった雪堂先生と 建築をされた太田新之介さんから贈られた着物を着られ人力車で登場された奥様芝雪先生。このことを知らなかった雪堂先生はびっくりしながらも うれしそうに目に涙を浮かべていました。御来賓に参議院議員前国家公安委員長の 小野清子先生 町田デザイン専門学校校長の 横山武人先生新経営研究会代表の 松尾隆先生を迎えて 開門式は始まりました。

斎主 太田新之介さんにより お祓い 祝詞があげられ 水引き結びきりを 館長 雪堂先生が行いました。そして 僕が初めて目にした 開門奏上浄められた竹を持った 新之介さんが 「千歳楽 萬歳楽 永々棟 開門」と発声され その間合計7回 打ち付けられました。初めてみる 日本の伝統的な建築の儀式に 震えるような感動をおぼえました。木で地面を打つのは 天と地を繋ぐ、大地に祈りを伝えるという意味があるそうです。そして 館長夫妻により 門は開けられました。清清しい檜の門をくぐると、今までの様々なことが頭の中を駆け巡りました。先生が御近所に迷惑にならないようにと 最小人数で行われた開門式の後は美術館の中で沢山の御来賓の方々を迎えての開館式が開かれました。雪堂先生御夫妻や 御来賓の皆様 美術館設立を支えてきた建設委員新之介さんひとりひとりの思いのこもった言葉 ひとつひとつが心に染みました。

建設委員の若い仲間を代表して 僕が演奏する番となりました。演奏前に話すことを決めていたのですが、おめでとうございますと先生と目が合った瞬間に誰よりも きっとこの日を望み 志し半ばにして亡くなられた先生の御子息 ひとしさんのことが 僕の心の中にいっぱいに思い出されました。絶対に喜んでくれてるだろうな。 きっと 今日もどこかで見守ってくれてるだろうな。 そんなことを思ったら涙が出てきて しゃべることが出来なくなってしまい、一言話して、すぐにディジュリドゥに口をつけました。何も考えず ただ雪堂先生 芝雪先生 今回の設立に御尽力を承ったひとりひとり雪堂先生と共に歩んでこられた書藝新潮社の先輩方 そして ひとしさんに吹こうと思った。いろんなことが思い出された いろんな人の笑顔が浮かんだ。あふれる鼻水をすすりながら 泣きながらディジュリドゥを吹いた。こんなことは きっと 今後もないだろうと思う。そして こんなにうれしいことは生まれて初めてだった。本当に本当に 開館できたことを心から喜ばれている先生。おめでとうございました。御協力いただいた すべての方に心から感謝いたします。

これからが また新たなスタートです。ひとりでも多くの方が この美術館に 小野田雪堂という人間に繋がっていくように 頑張っていきたいと思います。開館準備の時 新しく出版された一字千金のサイン会は先生が おつかれになるから止めましょうとの意見の中「僕はやるよ。倒れるまでやるんだ。みんながこんなに頑張ってくれたんだから」と先生は笑顔でおっしゃいました。開館初日 沢山の方にサインをされる先生名前とサインを書いていただきうれしそうにされる方々。こんなふうに 幸せが 笑顔が生まれる美術館に関われている今を本当に幸せに思います。 この今をありがとうございます。

ひとりの願いが 万人の願いに....

       合掌           中村 亘利   KNOB